校章降納式
令和3年3月25日(木)、午後1時から「校章降納式」が行われました。本校は、昭和47年に(旧)久那土中学校の地より同じく三沢のここ2417番地に移転しました。この年、野球部は、全国高等学校野球大会山梨県大会を制し、西関東地区大会でも埼玉県代表2校を破り、甲子園初出場を果たしました。以来、49年間にわたり、この校舎とともに本校の歴史と伝統は育まれてきました。本校は、統廃合により3月1日にこの校舎での最後の卒業生を送り出しました。
この日は、最後の峡南生(2年生 現青洲高校の地で3年生)と同窓生、歴代校長が見守る中、校章が外され、この校舎、この地とのお別れとなりました。本来であれば盛大に行われる儀式ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、最小限の人数での式となりました。應援團としても大團旗の掲揚しか行えず淋しい状況でした。
なお今月、青洲高校の地で最後の3年生は始業しました。應援團員も1名となってしまいました。コロナ渦でどんな活動ができるかも見通せない中、令和2年度末をもって、これまで峡南高校應援團にかかわってきた顧問はすべて他校への異動となってしまいました。このブログの更新も最後まで続けるつもりですが、リアルタイムでの更新は難しいです。ブログ開設以来、アクセス数も65万回を突破しました。最後までお付き合い、どうぞ宜しくお願いいたします。
この日は、最後の峡南生(2年生 現青洲高校の地で3年生)と同窓生、歴代校長が見守る中、校章が外され、この校舎、この地とのお別れとなりました。本来であれば盛大に行われる儀式ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、最小限の人数での式となりました。應援團としても大團旗の掲揚しか行えず淋しい状況でした。
なお今月、青洲高校の地で最後の3年生は始業しました。應援團員も1名となってしまいました。コロナ渦でどんな活動ができるかも見通せない中、令和2年度末をもって、これまで峡南高校應援團にかかわってきた顧問はすべて他校への異動となってしまいました。このブログの更新も最後まで続けるつもりですが、リアルタイムでの更新は難しいです。ブログ開設以来、アクセス数も65万回を突破しました。最後までお付き合い、どうぞ宜しくお願いいたします。
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